2016年の活動記録

熊本地震 相模原赤十字病院医療班帯同

  • 活動期間 2016年5月7日~11日
  • 活動者  山岳奉仕団 1名
  • 活動場所 熊本県 西原村
  • 活動概要

発災から出動
 熊本県中部南部は4月14日の余震、17日の本震で震度7を記録し大きな被害が発生した。日本赤十字社(本社)、日赤神奈川県支部(支部)はすぐに救護体制を整え支援体制に入った。

 支部から日赤神奈川支部災害対策本部(災対本部)設置の情報が4/15に発せられた。この災対本部設置に伴い支部支援センタと防災ボランティアで立ち上げ、支部からのボランティアニーズに対応する体制を作った。熊本が遠隔地であること、救護のニーズ情報がまだ少ないため具体的な活動は、後日の打ち合わせで具体化することとした。この際、支部救護資材倉庫からブルーシート100枚を日赤熊本県支部に送付した情報を入手した。

 4/18、支部で情報交換と議論を行った。ここで確認(決定)されたことは

 1)神奈川県日赤3病院の医療班に帯同し奉仕活動を行う。
 2)支部支援センタの活動はなく、ボランティアが支部に参集することは不要。
 3)支部から資材を送ることや資材整理など具体的な要請があれば要請の情報を出す。
 4)医療班の帯同ボランティアは救護3奉から順番に活動する。
 5)支部災対本部の活動の情報は慎重に取り扱うよう要請があった。

画像の説明

救護班としての活動
 第1日 5月7日(土)、羽田発11:30の全日空機で福岡空港に向かった。10時30分
空港第2ビルで相模原赤十字病院救護班(救護班)と挨拶し、救護班チームメンバの名前と顔を一致させるように努めた。
 13時ころ福岡空港に到着、日赤福岡県支部に救急車やワゴン車など3台をピックアップに行き空港に残ったメンバを乗せ熊本県に向かう。本日の行動は日赤熊本県支部に到着報告を行う、同支部災対本部で毎晩行うブリ-フィングに出席し先行の医療チームから情報を入手すること、途中の運転で現地の道路被害状況から現地活動の制限の度合いなどを探索することである。
 16時に日赤熊本県支部の駐車場に到着、災対本部に救護班全員で到着報告した。本部から現地の被害状況、医療ニーズ、dERU活動拠点の業務、巡回医療内容、現地指示系統、日赤指示系統など活動の基本情報を伝達された。とくに今回の震災では関西系マスコミの報道活動による被災住民への被害が多く伝えられているため、我々医療チームもマスコミ取材があった場合の対応など明確な指示があった。
 19時にdERU医療班や心のケア医療班など先行班が災対本部に帰着し全体ブリーフィング開始。」熊本県支部災対、医療チーム、庶務総務など日赤熊本県支部、病院から各種情報や報告がある。その後、各医療班から当日の活動報告、解決しなければならない問題など提示され議論された。
 明日引き継ぎ業務を行う、(東京)日赤葛飾病院(産院)、(群馬県)日赤原町病院と西原村dERUでの医療活動、周辺の巡回医療活動、西原村の被災状況、宿泊施設の状況を確認した。
 熊本地震の被害は熊本市内では家屋の被害が見られるが割合は低く、電気や水道などのインフラ、コンビニや郊外レストランなどの営業が行われ生活を進めるための条件は、東日本大震災、中越沖地震の被害地域に比べ復旧が早期に進められている。
 一方、震源に近い益城村、西原村、南阿蘇など地方では家屋の倒壊、道路や橋の損害など被害箇所が多く見られた。我々の宿舎は平山温泉の恵荘といって山鹿市(熊本市の北部)にあり、熊本県支部に50Km約1時間20分、西原村に約40Km約40分と移動に時間がかかる。
 日赤第2ブロックの救護班はこの宿を定宿とし葛飾日赤病院、原町日赤病院のチームもこの宿に宿泊している。毎日ブリーフィングを20時30分から21時過ぎまで行うため夕食は帰りの国道沿いのファミリーレストランで取ることになった。


 第2日 5月8日(日)、6時の朝食を早々に済ませ、西原村救護所(dERU)に車3台で向かう。1台は武蔵野日赤病院の救急車、もう1台は武蔵野日赤病院のハイエース、3台目は日赤神奈川県支部のハイエース、3台とも赤十字マークがボディに書かれ一見して救護関係車両とわかるものだった。
 医療班の生活関係サポートが奉仕活動のミッションのひとつである。西原村dERUに医療班が直行する一方で、途中のコンビニで本日の昼食と飲み物、行動食を調達して10分遅れで西原村に到着した。この救護所は「にしはら保育園」の駐車場に開設されテントが2個連結され診療台は2個用意されている。診療時間9時から16時まで。

 通常医師が2名(2個班)常時対応する。もう1班は巡回医療を行い、午前中、河原小学校、午後はにしはら保育園、中学校、役場施設の「地域改善センター」などを巡回する予定が組まれている。

 河原小学校の診療所では高齢の傷病者が不眠や体調不良を訴え来所する。午前中に7人受け付け災害用処方箋を発行し、他県から救護できている薬剤師が調剤して渡した。この災害現場診療所や災害用処方箋がそろそろ地元医療機関にバトンタッチする時期かもしれない。

 日赤の医師の診察や投薬はすべて無料で行われている。健康保険証の提示は必要ない。
このため、愁訴する傷病者の何人かは治療・投薬があまり必要ではないような診断結果であるが、毎日来場し胃の薬、目薬、など訴える症状(ほしい薬)が違う方もこられる。遠からず西原村の再建が進めば現在町内に2件あるクリニックも通常通りの保健医療を再開し、医療機関と患者さんの双方が自立した関係で診療投薬が行われる。

 無料の災害医療がいつ地元機関にバトンタッチするかという見極めは災害医療現場をマネージしている日赤に重要な判断が任されている。患者さんと地元医療機関の動向に常に目を注いでいる

 13時過ぎ、突き上げるようなドンという震度3の地震あり。また毎日小規模な地震が繰り返され、住民の方々の心労はいかばかりかと思い暗澹たる気持ちになる。
この日の終了間近15時45分ごろ70歳代の女性が娘に付き添われ来場。体調不良で自力歩行出来ず小生がかかえベッドに寝かせた。原町病院の医師判断で救急車要請し後方搬送とした。救急車の誘導とストレッチャーの搬送、個人の身の回りのものを救急車に入れ救急車を見送った。この日から天候は悪化、15時から本降りの雨となり一晩中の雨となった。

 17時、一日の確認ミーティングを行う一方、ほかのメンバーは熊本日赤病院のブリーフィングに向かう。西原村から小一時間、熊本県支部に到着。熊本県支部は血液センターのビルと共用している。熊本の日赤の施設は大変大きく病院の屋上にはドクターヘリが常駐している。病院の隣にはこども専門の病棟(病院)があり施設全体ではみなと赤十字病院の数倍の広さ、建物の数と機能がある。我々のブリーフィングルームも日赤神奈川県支部7階の4倍以上あり、そのブリーフィングルームの5倍以上が1フロアの大きさである。


 第3日目 5月9日(月)、この日、西原村のdERUは相模原病院医療班だけの体制で、現場は少人数で今までの患者さんに対応し、訪問診療を行うというハードスケジュールが予想されている。一方では、単独チームのため朝のブリーフィングは無く宿舎出発は6時50分となった。

 食料や飲料の調達で早めに出発、医療班のメンバーの顔ぶれを考えながら昼食を調達した。また、昼に食事をした後夕食は22時ころのためかなり空腹となるので、行動食としてチョコチップパン、ビスケットや飲み物を車に用意して、午後の診療中や帰路の車の中で簡単に取れるように用意した。医療チームには大変好評で、仕事で疲れている中、車で休みを取りながら茶菓をとり心のギヤチェンジをしたり、小腹を満たして休憩したりということが災害現場で安らげる時間である。

 この日は朝から雨模様、午前中dERU、午後避難所の巡回診療というハードスケジュール。天気が悪くても患者さんは見えます。dERU(保育園)の隣に老人用ケアホームと社会福祉協議会(社協)が一緒になった施設があった。そこから車椅子でdERUに通う70歳代の男性がいます。昨日も年配の女性に車椅子を押してもらい風邪気味の訴えで受診。帰り道は車椅子を押して施設に行った。この雨のなか、一瞬雨の止んだときに再度来場、のどを先生に診てもらい又車椅子を押して施設に戻ります。あいにく帰りは小雨が降り始めましたが付き添いの女性には男性に雨が当たらないようお願いしゆっくり押して施設に戻った。

 我々の医療班がdERUで医療対応する最後のチームで、この診療所も明日の午前中が最後になる。明日から来る(広尾)日赤医療センターチームは巡回診療を主に行い、dERUも2日後撤収することが決まっている。施設から来た男性と施設の女性は近所で医療行為が受けられる環境がなくなる心細い思いを漏らしていた。入り口を閉じている午後になっても、2日前から来ている手の切創の女性が包帯とガーゼの交換で来場し師長に交換してもらった。保健医療につなぐため、災害用カルテは地元保健師に引き継ぐそうです。

 夕方、小雨の中熊本日赤に戻り災対本部と当医療班、心のケア1チームでブリーフィングを行った。ここに日赤医療センターチームが参加し明日の申し送り前に打ち合わせを行い、西原村の状況を小川先生から医療センター医師に伝達、師長同士も巡回などについて情報伝達した。


 第4日目 5月10日(火)、朝から小雨です。今日は引き継ぎ業務とdERU撤収のための準備など現地で行う仕事はかなりあります。いつも通り医療班の食事や飲み物、行動食を調達し西原村に直行。先生同士は巡回診療について諸注意と確認を行っている。看護師さん、主事さんたちでカルテ保管の申し送りなど医療事務の手続きを行う。

 9時になると、続いて患者さんが来場しdERUは診察待ちとなる。この日がこの診療所最後であるが、地元の方々に有効な医療が提供できていたと思う。午前中の診療が終わり先生と師長は巡回診療に出発。dERUの中の診療台ベッド、医薬品、医薬資材を整理、不要物はごみとして熊本県支部に持ち帰り、医療ゴミは当然持ち帰りとしてパッキング。たためる椅子なども床に置き余震があっても倒れないように整理した。

 2時ころ2日前に救急搬送した女性の付き添いのかたが見え、市内の総合病院に搬送され容態が安定し一命を取り留めたお礼に見えた。居合わせた全員が安堵し、先生に忘れずにお伝えすることをお約束した。

 巡回診療に行っていた先生も戻りdERUの撤収状態を確認したいたところ、自家用車で4-5歳の女児が家族とテントの前に来る。話を聞くと、避難所で熱い飲み物を足にこぼし火傷との事、すぐ先生に伝え対応すると決定。

 たたんだベッドを広げ不織布の使い捨てシーツを引く。車から女児を抱え簡易ベッドに寝かせ、先生が傷を検診し軟膏など準備できる医薬品を薬剤師に確認し、治療する。最後の最後まで地元のニーズに寄り添った、「人道」を具現化する赤十字の医療班であった。
 夕方熊本日赤の災対本部に撤収報告しブリーフィングを待たず宿に戻り、かえりの荷支度やゆっくり温泉に入り熊本の最後の夜を過ごす。


 第5日目 5月11日(水)、この日のミッションは、武蔵野日赤病院の車2台を福岡県支部に返却。神奈川県支部の車はフェリーで竹芝桟橋まで回送するため、博多港に運搬すること。
相模原病院のチームより先に恵荘を後にし、一路、博多港を目指し車を進める。港の車受け付けは8時、高速道路を順調に進み福岡市内の高速から福岡港三井の埠頭へ8時前に到着。埠頭の方に引渡しミッション終了。

 急ぎ福岡空港に戻り、相模原病院医療班と合流。11:15出発の予定が使用機材のエンジンにバードストライクあり点検に暫くかかるとのアナウンス。30分以上とうい当初の予想と違いあまり待たずに機上の人となり羽田空港に向かう。羽田空港で最後に皆さんにお礼と挨拶し支部に向かう。
 16時過ぎ日赤神奈川県に到着、帰着報告を行った。

報告と所感
・相模原日赤病院の医療班は、先生のリーダーシップの下、医療のプロとしてdERU来場患者さん、訪問医療現場の町民に日ごろの訓練と持てる最善の医療技術をもって対応した。これは、専門的な医療技術が優れている事にあわせ、人道=困っている人に手を差し伸べ、出来る最善の対応を行う、という赤十字の基本原則の具現化以外の何ものでもないと思う。

・熊本県外の日赤医療チームは常時3個班活動しており、多いときは5個半以上が、西原、益城、南阿蘇、などの被害が甚大な被災地で継続的に活動し、地元住民の信頼は厚く(篤く)活動は現地で「見える化」され、災害に強い赤十字の実力が発揮できたと思う。

・被災地が限定的、地方に偏在しているため、大掛かりな支援活動(各県の警察消防、自衛隊、ボランティアなど)の受付から活動指示の具体的活動が見えづらかった。

・我々のチームが、dERU=災害時の緊急医療ユニットの最後であるが、これから西原村をはじめとする被災市町村の「保健医療」自立までの移行期間では、日赤をはじめとする医療チームの支援は途切れてはいけない、止めることが出来ないほど地元医療機関は被害を受けている現実を認識し、活動に工夫が必要である。
 とくに「心のケア」は、地元クリニックでは専門性やマンパワーなどの点から対応しきれないほど精神的な愁訴が多く、継続的な対応が必要になってくる段階である。日赤第2ブロック、神奈川県支部の実力が発揮できる重要な時期になってきたと感じた。これからの神奈川県支部の現地支援を望む一方、我々ボランティアも可能な限りお手伝いを継続したい。

・ミッションはボランティアとして相模原日赤病院に帯同し、チームのバックアップを行った。日赤車両の運転、食料飲料の買出しや準備、一日の食料計画、dERUの整理整頓、dERU来場の患者さんのテント前の対応と受付への引き継ぎ、被災所の巡回診療で患者さんの受け付け前の整理待合所(室)の設営と「傾聴」。相模原病院と日赤神奈川県支部の業務支援が行えたか自信はまったく無いが、メンバーの一員として活動できたことは同行の皆さんに感謝する次第である。ありがとうございます。